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徽宗皇帝のブログ

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共産党の「民主集中制」(党中枢独裁肯定思想)という根本的欠陥
「混沌堂主人雑記」所載の「代替案のための弁証法空間」というサイトの記事だが、社会主義者で尊皇主義の私から見てもまともで有益な記事である。というのは、共産主義は社会主義の鬼子であり、明治以降の帝国主義天皇制(敗戦で終わっている。したがって、現在の反天皇主義言説はナンセンスである。)は日本の伝統的な天皇の在り方(権力ではなく権威であること)と大きく違背するというのが私の考えだからだ。
ちなみに、「シオン長老の議定書」によれば、マルクス主義そのものがユダヤによる世界支配の方法のひとつである。つまり、当人たち(主に下っ端たち)は自覚していなくても、共産党も勝共連合も事実上ユダヤ(DS)に操られているわけだ。世界政治の中心部分はそのどちらかに加担したり批判したりすることで忙殺され、マスメディアはそれを報じ、人民は「背後の操作者」には目が及ばない仕組みである。

(以下引用)

水戸学国体論の国家観とマルクス主義の国家観

2020年10月06日 | 政治経済(日本)
 菅首相による日本学術会議会員の任命拒否問題。
 日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は、早くからこの問題でスクープ報道を連発し、これがいかに重大な問題かを鋭く指摘してきた。敬意を表したい。その上でなお問いたい。かりに共産党が単独政権を取ることがあった場合、同じような問題は起きないのか、と。

 思い出す例をあげれば、共産党員で唯物論哲学者として活躍された古在由重氏は、共産党を批判したグループを支援したという理由で共産党を除名処分にされた。古在氏が死去した際、商業新聞各紙がその学問的業績を評価して大きく報道しているのに、かつて一緒に活動していたはずの「しんぶん赤旗」紙上では何の報道もせず、黙殺していた。当時の私は大学生だったが、「これは人間としてダメだろう」と思ったものだった。
 共産党に対立したというだけで、故人の学問的業績を否定し、なかったことにするようなことがあるのであれば、かりに共産党単独政権になれば、菅首相と同じことをやることは目に見えていると言わざるを得ない。
 同じ党名の中国共産党がまさにそのようなことをしている。たとえば胡耀邦のような重要な政治家の業績は、中国史において完全になかったことにされてしまっている。どうしてそうなるかと言えば、マルクス主義のプロレタリア独裁理論や前衛党理論に問題があるのだと言わざるを得ない。

 学問を国家が支配している中国の共産党国家に対抗するために、自らが中国のようになっていく。日本における今回の学術会議会員任命拒否事件も、中国の軍事的強大化に対して対抗しようとして、日本学術会議に軍事研究をさせようと、それに反対しそうな学者をあらかじめ排除しようという意図で行われたことだろう。日中が対抗すればするほど、お互いに似た者同士の醜悪な国家へと変貌していく。
 日本の右派の日本会議とっても、中国共産党の保守強硬派にとても、自らが国家を乗っ取るためには、敵が必要であり、互いに互いを利用し合っている。つまり日本の右翼国体論者と中国共産党の強硬派は、互いに国家権力を掌握するために協力関係にあるパートナーとすら言えるだろう。いちばん不幸になるのは、両国の国民である。

 この悪循環を断ち切るには、お互いの経済にマイナスでしかない軍拡競争の愚を認め合い、軍事費の歯止めない拡大に、両者合意のもとに、互いにブレーキをかけるしかないだろう。だいたい環境破壊で足元の地球そのものが滅びそうなのに、それを上回る脅威など他にはあり得ない。仮想敵国の脅威など、明らかに地球環境の破滅の脅威の前には些細なことでしかないのだから、いまは全人類的課題の解決のために、協調・協力することを優先し、お互いに矛を収めるしかないのだ。

 冒頭に掲げた図は、水戸学のイデオローグである藤田東湖の思想的影響を受けて尊王攘夷の水戸学的国体論者になった薩摩藩士の海江田信義が明治になってから著書に書いた図である。水戸学国体論の目指すところを分かりやすく示している。国家は一つの有機体であって、天皇を頭として、その指令のもとに人民は手足として使役される。15年戦争期の日本などは、まさにこの図の通りだったといえるだろう。
 権力の分立を否定する国家観である。こうした体制は、柔軟で合理的な思考をする良い指導者を得たときには、うまく機能することもある。権力を分立させなければならないというジョン・ロック以来の思想は、こうした体制が、指導者が間違った選択をしたとき、とんでもない暴走をすることがあるから、その反省に基づいて発展してきたのである。
 ゆえに司法・行政・立法の三権だけでなく、学問や報道なども行政権力から独立していなければならない。研究機関や報道機関の人事権を行政に握られるなどということは、決してあってはならない。NHKという公共放送や、日本学術会議のような学術団体の人事に行政府が介入しているという今日の事態は、確実に海江田信義が理想としていた国家への接近である。

 中国共産党がそれを行うのは日常茶飯であるが、それはマルクス主義のプロレタリア独裁の国家観が、水戸学国体論とあまり変わらないからだ。先ほどの海江田信義の国体論の図において、頭脳となっている「元首」を、前衛党としての「共産党」に置き換えれば、プロレタリア独裁の国家観とあまり変わらない。
 マルクス主義においては、階級対立が廃絶されたプロレタリア独裁の権力において、前衛党の指導は無謬であるから、それを監視する学問や報道の自立性など認める必要もないということになる。おどろくべき幼稚な政治理論であると言えるだろう。

 日本共産党が「学問や報道の独立を脅かすようなことは政権をとっても決してしない」と言うのであれば、それを確約する唯一の方法は、マルクス主義を放棄して党名変更することだと思う。
 人間は間違える。ゆえに権力は分立し、お互いにチェックし合わなければならない。それを認めようとしなから、右派と左派は似た者同士だと言えるのだ。
 
 

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