"拾い物など(興味を引いた他人の作品の断片)"カテゴリーの記事一覧
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*私は市民図書館愛好者で、毎週10冊の本を借りるのが習慣だが、自分の金を出して本を買うわけではないので、その10冊は別に好きな作家だけには限定されない。少しでも興味を持てば、借りて、そのまま読まずに返す本も多い。そうした本の中には思い掛けない掘り出し物もある。掘り出し物とは、自分にとって有益な知識や情報のことである。もちろん、ただ読んで面白かったというのも掘り出し物ではある。
市民図書館の本には、新しい本は少ないが、古い本でも有益な情報はあるのである。
たとえば、松任谷由美(字はこうだったか?「由実」かもしれない。Jポップはほとんど聞かないので、歌手名もうろ覚えだが、彼女の「ルージュの伝言」は大好きだった。)の歌について中沢新一が次のように言っているが、これは鋭い分析だと思う。
出典は、山田詠美と中沢新一の古い対談集「ファンダメンタルなふたり」である。
中沢「ユーミンの詞って、よく出てくる単語がきまっているでしょう。「恋」とか「雲」とかは当たり前として、「もう一度」や「いつか」というのはいかにもユーミンらしいよね。なかでも「あの」という指示代名詞の使い方が、並じゃないんだ。知らない人にとっては「あの」と言われても、「何、それ」ってことになるけれど、知っている同士ではすごく意味ある言葉でしょ。「あの」と言うときは、共感を潜在的に強制するんだ。ぼくもよく使うけれど、これは、相手のサブリミナルを巻き込みながら話題にひきこもうという言葉だから、ちょっとズルいと言えばズルいんだ。「ね」と言うのと同じでしょ。日本語として絶妙だよね。メッセージはないのに、コミュニケーションを成り立たせちゃうんだものね。」
(下線部は徽宗皇帝による)
*私自身はユーミンの歌には詳しくないので、彼女の歌に「あの」が頻出するかどうかは分からないが、「あの」という言葉が聞き手との間に共犯関係を作る言葉だという分析は正しいと思う。それに加えるならば、「あの」という言葉は、出来事がすでに終わったという事を暗示しており、彼女の昔の歌の多くが、失われたものへのノスタルジーを歌っていたことと、「あの」の使用は関係があると思われる。
*ついでながら、使う単語が限定されているというのは、欠点でも何でもないのであり、むしろ、日常の言葉を拒絶し、音楽における楽音のように詩として成り立つ言葉を選び抜いて使うというのは優れた詩人として当たり前である。その代表が立原道造であり、彼の詩は、「立原道造用語」というべきもので構成された詩の建築物、あるいは詩の音楽なのである。PR -
例によって、名詩の日本語訳のそのまた現代語訳である。
過去の訳詩が文語であっても、変えようのないものもある。たとえば、上田敏によるカール・ブッセの「山のあなた」やブラウニングの「春の朝」などは、もともとの詩よりもすぐれているのではないか。それほど知られてはいないが、森鴎外訳の「トゥレの王」や「物見に生まれて」なども、動かしようの無い訳だ。それ以外の翻訳者をおとしめる気はないが、現代人にはとっつきにくい訳もたくさんある。難語や雅語を駆使した苦心の訳も、今ではただの骨董品になっているのである。
屋上屋を重ねるような無駄な作業には見えても、そうした訳詩を再度訳すのは、無意味な仕事だとは思わない。
で、今日は「虎よ、虎よ!」などで知られるウィリアム・ブレイクの「蝿」という、あまり知られていない詩である。
蝿
あわれな小蝿よ
私のこころない手が今
お前の夏の戯れがうるさくて
打ち払ったのだ
だが私も
お前に似た小蝿の身ではないだろうか?
お前もまた
私に似た人の身ではないだろうか?
私も飲み、踊り、
また歌いはするが、最後の日には
十把一絡げに打ち払う闇の手が
私の翼を打ち払うだろう
思慮や判別こそが
命であり力であり
思慮しないこと、判別できないことが
死であるならば
それならば私の身は
実に幸いに満ちた小蝿であろう
生きるにせよ、死ぬにせよ
それはどちらでもいいことだ
(ウィリアム・ブレイク) -
例によって、外国語の詩の日本語訳のそのまた現代語訳である。
ボードレールの「秋の歌」だが、これには名訳も多々あって、今更訳する必要も本当は無い。だが、やはり古風な文章での訳が多いので、それを少し変えてみることにする。元になったのは永井荷風の訳である。第二節はあまりいいとは思わないので、第一節だけを訳すことにする。
現代口語というものにはロマンティックさが欠けているので、この詩に関しては文語体のほうが似合うとは思うが、詩に馴れない人のために、まずは意味を優先させようという意図で訳している。もちろん、その「意味」も私が恣意的に作った部分がある。
「秋の歌」
私たちはすぐに寒さの闇の中に陥るだろう。
短かった夏の光よ、さようなら。
私を驚かすあの音は、中庭の敷石の上に
誰かが投げ込む薪の音。
ふるえながらその音を聞けば
それは、まるで断頭台を築く音のようだ。
頑強な戦士の槌の一撃に
倒れる城の物見の塔か、私の胸は。
その物憂い響きに混じり
どこかから聞こえる、棺に打つ釘音のような音。
それは過ぎた夏を葬る声であり
秋が来たと告げる声。
その声はまるで死者を送る弔鐘のようだ。 -
*私の持っている白鳳社の「名訳詩集」の中にはいい詩がたくさんあるが、その中には、文体が古すぎて、現代人には良さがわからないものもまたたくさんある。かつての名訳も、現代人には「訳の訳」が必要な時代になってきたということだろう。そこで、そうしたかつての訳を私が更に現代風に変えて訳してみる。原詩はもちろん読めないから、誤訳になる可能性も高いが、なに、名詩が少しでも多くの人の目に触れることの利益にくらべたら、ささいなことだ。私の訳が不満なら、誰でも訳し直せばよいだけである。
「町に雨が降るように」 (ポール・ヴェルレーヌ)
町に雨が降るように
俺の心にも雨が降る。
心の底ににじみ出る
この寂しさは何だろう。
大地に、家の屋根に降る
雨の音のひそかさよ。
寂しい心に響く
雨の音、雨の歌。
悲しみと愁いに満ちたこの心に
理由もなく雨が降る。
恨みの心があるわけじゃない、
嘆きの理由があるわけじゃない。
恋も憎しみもないのに
どうして俺の心が
こんなに苦しいのか
それがわからぬのが、俺には苦しいのだ。 -
詩というものは、人生の伴侶である。美しい映画音楽が映画の効果を高めるように、愛唱する詩は生活の伴奏音楽となるのである。
しかし、学校で習う詩のくだらなさのために、世間の大半の人間は、詩を人生の薬味とする楽しみをしらない。
もちろん、忙しい生活を送る現代人が、四六時中、詩を心の中に抱くことはできない。
だが、ふとした瞬間に詩の一節を思い出すのは、生活の時間を美しく彩るのである。
ステンドグラスのはまった丸天井を抜けてくる光のように。
そうした詩の断片を幾つか書いていこう。まずはアルチュール・ランボーの詩から。
「錯乱」より
見つかった!
何が? 永遠だ。
太陽に溶けた
海だ。 (高橋彦明訳)
もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。 (堀口大學訳)
「最高の塔の歌」
あらゆるものに縛られた
哀れ空しい青春よ、
気むずかしさが原因で
僕は一生をふいにした。
心と心が熱し合う
時世はついに来ぬものか! (堀口大學訳)
すべてに縛られて
なすこともなく過ごした青春よ、
心がせんさいなばっかりに
おれは生活を失ってしまった。
ああ! 時よ来い、
すべての心の燃える時よ。 (高橋彦明訳)
「幸福」
おお、歳月よ、あこがれよ、
誰か心に瑕のなき? (堀口大學訳)
おお季節よ、おお城よ!
無疵な心なんてあるものか? (高橋彦明訳)
*訳を二つずつ並べたが、その前の訳のほうが、好みの訳である。ある部分では高橋訳が好みだし、ある部分では堀口訳が好みだ。
こうした断片的な詩句のカッコ良さでは、ランボーにかなう詩人はいない。もちろん、ボードレールにもジャック・プレヴェールにもいい詩句はいろいろある。
まあ、いい年をした男がいまだにランボーを読んだりするわけではないが、書斎の本棚に眠る、過去の思い出を甦らすのも悪くはないだろう。
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ブリア・サヴァラン「美味礼讃」上巻岩波文庫p122,p123
(筆者ブリア・サヴァランが、米国のある地主から歓待された、その時の地主の言葉)
「ごらんのとおり、この世に幸福な男がいるとすれば、わたしこそその幸福な男ですよ。あなたをめぐるすべて、あなたがわたしの家でごらんになったすべては、皆わたしの持ち物から生まれたものです。このくつ下は娘たちが編んでくれたものですし、くつだって衣服だって皆うちの羊たちからの賜物です。羊はまた菜園や家畜小屋といっしょになって、わたしのために単純でしかも身になる栄養を供給してくれます。皆さんは政府をえらくおほめになるが、それというのもコネチカットに住む何千の農夫が、皆わたしと同様に満足しているからですよ。かれらの家には、わたしの家と同様、戸締りなんてものはないんですよ。
税だってここではほとんどないも同然です。そしてその税金さえ納めていれば、われわれはまくらを高くして眠れるんです。議会はわれわれの始めたばかりの工業をできるだけ補助してくれるし、郵便配達は東奔西走してわれわれが売りたいと思うものをさっさと片づけてくれます。わたしは長いこと現金には事かきません。わたしは最近メリケン粉を一たる24ドルで売りましたよ。
それらのことは、皆われわれが自ら獲得してよき法律の上に置いた自由の賜物です。わたしはここに来てから太鼓の音なんか聞いたことがありません。七月四日すなわちわれわれの独立記念日のほかには、兵隊も制服も銃剣も目にすることはないのです。」
徽宗皇帝注:上記の言葉の意味するものは何か。我々が政治を本来の主人である民衆の手に取り戻せば、地上の天国は簡単に生み出せるということである。なぜなら、その地上の天国はかつて実際に存在したのだから。それは、アメリカがイギリスから独立し、民衆が自らの手で政治を行っていた短い間だけのことだった。 -
補遺1 賞罰の適用。賞は下っ端に。罰は大物に与えよ。処刑される人間は大物であるほど、表彰される人間は小物であるほど反響は大きい。このことで、賞罰が厳正に適用されていることを知らしめることになる。
補遺2 天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかずとは真実である。将帥たるもの、天文気象に左右されず、地勢の不利にも動揺せず、他人の意見に盲従せず、縦横に独歩すべきである。それによって勝敗の帰趨を握ることができるのである。有能な者を抜擢して用い、法令を明確詳細に規定して実行し、人民を労わり用いれば、結果はおのずと吉となるのである。
総括
以上、マキァベリと尉繚子の中から、特に興味深い部分を書いてみた。馬と大砲についての「戦争の技術」の中の記述は、目からうろこが落ちるようである。我々は、騎馬は歩兵より有利で、大砲の破壊力は脅威であると盲目的に信じているが、そうではないことが、論理的に示されている。ちなみに、これらの言葉は、マキァベリの同時代のある軍人の言葉をマキァベリが記録したものである。単なる兵法家ではなく、現実の戦場の体験者ならではの発言と言えよう。
尉繚子は孫子や呉子ほど有名ではないが、古代の戦争の要諦を的確かつ総合的にまとめてある点では、孫子呉子以上に優れていると私は思う。孫子は兵法の始祖的存在で、いわば歴史的価値があるにすぎず、本質的価値という点では尉繚子はもちろん、呉子にも劣ると私は見ている。しかし、もちろん、戦争の一般論としての価値の高さは言うまでも無い。孫子が乗り越えられたことは、前の時代の思索を元に、後の思索が加算された当然の結果ではあるが、孫子の中には魅力的なフレーズも沢山あり、人生の戦略にも通じる古典としての価値は今でもある。そこが、他の戦術書との違いだろう。もっとも、尉繚子にも日常の組織論として読んでも意味深い言葉は多々あるのだが。 -
敵に乗ぜられる12の欠陥
① 確信に基づかぬ行動。後悔の種である。
② 無辜の民衆を殺戮すること。災いのもとである。
③ 上官のえこひいき。部下の不平の原因である。
④ 指揮官が自分の失敗を認めぬこと。不祥事のもとである。
⑤ 人民を収奪し尽くすこと。不測の事態のもとである。
⑥ 敵側の離間工作に乗せられること。指導者の不明である。
⑦ 命令を安易に下すこと。部下は無責任な行動を取る。
⑧ 賢人を退けて、用いないこと。指導者は固陋に陥る。
⑨ 利欲に目がくらむこと。災厄のもとである。
⑩ 小人を重用すること。害毒のもとである。
⑪ 防衛態勢を怠ること。国家滅亡のもとである。
⑫ 指揮官の命令が無いこと。軍は混乱に陥る。